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内藤泰子さんはなぜ眼鏡をかけていてもポル・ポト派に殺されなかったのか?

「クメール・ルージュの兵士達は、眼鏡をかけた人を皆殺しにした」
という話は、当時のカンボジアの狂気を象徴するものとして語られます。

たとえば・・・

The Khmer Rouge targeted for execution every educated Cambodian,
anyone who spoke a foreign language, ex-soldiers and their relatives,
even people who wore eyeglasses.

(クメール・ルージュは、教養があるカンボジア人を皆―外国語を話せる人誰でも、元兵士とその親類、眼鏡をかけた人まで―処刑の標的にした。)



ところが、当時の新聞に載っている写真を見ると、
日本に生還した内藤泰子さんは、壊れかけた眼鏡をかけているんです。

―どうして内藤さんは4年もの間、無事でいられたのか?
私は長い間ふしぎに思っていました。

人前では眼鏡を外していたのか・・・
たまたまクメール・ルージュ兵に見つからなかったのか・・・


内藤さんの回想録で眼鏡に関する箇所を探してみると、
1977年8月23日の日記にこのように書かれていました。

きのうは厄日だった、子守をしていてメガネを落とし、ツルが真ん中から二つに折れた。
集会では、「メガネをかけていると生意気そうだ。上の人が来たときでもはずせないか」
と言われていたけど、近眼なんだからメガネなしは困る。
プノンペンで時計屋をやっていたおじさんに治してもらった。



眼鏡は「生意気そう」に見える厄介な物であり、
「上の人」(クメール・ルージュの地方幹部)が来た時には外した方が無難だ
という認識は、内藤さんの周囲にも確かにあったようです。

しかし、内藤さんは眼鏡をかけ続けています。

彼女が近所の人の家を訪れた際、たまたまクメール・ルージュの幹部がいて、
一緒に食事をした話が出てきます。内藤 (p. 64)
この時だけ偶然に眼鏡を外していたとは考えがたいのですが、
内藤さんは咎められることなく、いろいろな話で盛り上がっているのです。


―そもそも「クメール・ルージュが眼鏡の人を片っ端から殺した」という話は
どこまで真実なのだろう?

そんな疑問を持つ私に
産経新聞社の記者であった近藤紘一氏の文がヒントを与えてくれました。


まず近藤氏は、クメール・ルージュがプノンペンから人々を追い出す光景を、
内藤泰子さんの体験から書き起こしています。

道端の赤土にサロン姿の若い女性が倒れていた。
かたわらで夫らしい男が、「助けてくれ!医者を探してくれ!」と必死で叫んでいる。
泰子さんは、荷物を積んだ乗用車を押しながら、若い女性の下腹部から
赤ん坊が半分、外に出ているのを見た。

郊外のある工場の門前、一枚の大きなドアに手足を五寸釘ではりつけられた
素っ裸の男の死体がさらしてあった。胸には「クマン(敵)」という一文字が黒い塗料で書きなぐってある。
死体はもはや正視に耐えないほど真黄色にふくれあがって、顔の見分けも付かなかった。
人々は目をそむけ、よけて通ろうとした。
死体のかたわらの兵士が「よく見ておけ」と強要した。

あれで、みんなが頭に白い布をつけていたら、文字通りの地獄の光景だった―
このときの街道のありさまを語るたびに、泰子さんは決まってこう口にする。



ここから近藤氏の考察が始まります。

話がそれるが、私は、この泰子さんの体験談、目撃談を聞きながら、
よろず伝言情報というもののひとつの特性を感じた。
これは、私たち報道者にとっても、また同時にその報道に接する側の人々にとっても、
案外ゆるがせにできないことと思われる。
炎天下の街道を銃剣に追い立てられながら“一時間二百メートル”の速度で
歩かされた人々にとって、その体験が“地獄”であったことは疑いを容れない。
また、道端で獣のように出産する婦人や、裸でハリツケにされて死体がさらされていたことも、
他の難民の証言からはっきりと確証されている。

むしろ、私がちょっと立ち止まりたくなるのは、多くの難民が、
この残酷な行進のすさまじさを伝えるために、決まってこの
「道端の妊婦」と「ハリツケのさらしもの」の二例を真っ先に持ち出すことである。
“死の行進”のありさまを伝えた何冊かの書物にも、この二例は必ず語られている。
これは、とりもなおさず、そうした事実があったことの何よりも雄弁な証拠といえるのだが、
ただ、あえていえば雄弁すぎるのではないか、という気がするのだ。
その日、プノンペンからプレクプヌー方面へ向かう国道五号線を、
何万人、何十万人の人々が通ったか、私は知らない。
そして、その大半が、おそらく、この道端の産婦と、ハリツケの処刑者を見た。
いずれもあまりにもどぎつい光景だっただけに“体験談”“目撃談”のさわりとして
これらが出てくること自体は当然といえよう。

しかし、ここに、一種の落とし穴もあるのではないか。
それは、私たちがある種のルポ記事を書くときに用いる“鋭角的手法”とやらに一脈通じている。
記者自身が、取り扱う主題を最も生々しく読者に伝えようと試みた場合、彼は、
自らの職業意識が最も敏感に感応した現象のみを、それもときに局所肥大的に
描写・伝達したい誘惑に駆られる。
どぎつい実例を二三並べれば、それだけで原稿のパンチも効く。
私はこの“鋭角的”な切り込み方そのものがジャーナリズムの邪道だとは思わない。
ただし、この種のルポがルポとして通用するのは、書き手に感応した、
全体の一部があくまで、その全体の本質を語り、かつ
全体像自体の輪郭をも過不足なく伝えるものであった場合のみだろう。
言い換えれば“鋭角的視点”をふりかざすことで、いくらでも「事実」を伝えながら
「真実」をゆがめて伝えたり、真実の一面のみを極度に誇張して伝えることもできるのだ。

難民たちの話を聞いていると、しまいにこの日の国道五号線には何十人もの産婦が
息絶え絶えで転がり、行く先々に“敵”の裸の死体がさらされていたような印象さえ受ける。

現実に泰子さんが目撃した産婦はただ一人であり、ハリツケ死体もただの一体であった。




彼が言う“鋭角的手法”の罠に、私は陥っていたようです。

「眼鏡をかけた人が殺される」という出来事が
ポル・ポト政権下のカンボジアの方々で起きていたことは
多くの難民が証言しているところであり、事実なのでしょう。

しかし、重要なことは、クメール・ルージュは近眼を敵視したのではなく、
知識を敵視したということです。
「眼鏡をかけた人」は知識人の疑惑ゆえに殺されたのです。

Refugees said Cambodians wearing eyeglasses were killed because the Khmer Rouge thought only intellectuals wore eyeglasses.

(クメール・ルージュは知識人しか眼鏡をかけないと思っているため
 眼鏡をかけたカンボジア人を殺している、と難民は語った。)



眼鏡をかけた人が受けた迫害は、クメール・ルージュの反知性主義的な本質を語り、
全体像自体の輪郭をおおよそ過不足なく伝えると言えるのかもしれません。
そういう意味では、真実を歪めるたぐいの“鋭角的手法”ではないと言えます。

しかし、あらゆる時期、あらゆる場所で、同じ深度の迫害が起きていたとはいえず、
眼鏡をかけた内藤さんが生き延びていても不思議ではないのです。


クメール・ルージュは1977年頃から「反革命分子」の洗い出しに躍起になるのですが、
内藤さんは、現在のバンテアイ・ミアンチェイ州にある寒村「マウ」で暮らしていました。

カンボジアの地図を見ても、「マウ」という村がどれだか分かりませんが、
夜になると森でオオカミが鳴くような、とにかく人里離れた村だったそうです。

古くからクメール・ルージュが支配していた「解放村」で、主要街道からも外れていて、
クメール・ルージュの幹部もそう頻繁に来ないような場所でした。

細川美智子さんと内藤泰子さんの体験記を読み比べると、
細川さんの方がより政治的に抑圧された環境にあり、慄然とさせられる描写が多いのは、
そのような理由からでしょう。

内藤さんももちろん大変つらい体験をなさっているのですが、病気や飢餓が主で、
身近で住民の処刑は一度だけしか起きませんでした。
彼女自身も、そのような寒村にいたことが生存に繋がったと考えていたようです。近藤 (p. 127)

というわけで、数年前の新書風タイトルのような私の疑問に対する答えは・・・
・クメール・ルージュの統制は地域により差があった
・内藤さんは運良く政治的な締め付けの緩い場所にいた
ということになろうかと思います。


さて、近藤氏はこのように結んでいます。

私が唐突にここで、あるいは言わずもがなの注釈を付したのは、
ある時期の日本のベトナム戦争報道が、書き手側のどうやら恣意的な“鋭角的”切り込み方の
積み重ねによって、とんでもない方向にねじ曲げられてしまっていたことを、
戦争後期に現地をカバーした特派員としてなかば絶望的な思いで実感したからである。
当時、この手法で“切られた”のは、米軍の行為や、各国の親米反響勢力の腐敗と圧政ぶりであった。
米軍や各反共政権の非道さを浮き彫りにするに、あるていどの「真実」が語られていれば、
「正義の味方」「民衆の救世主」であった解放者が勝利した後のインドシナが、
どうして現在のような混乱に陥ってしまったのか、について、多くの読者(報道の受け手)は、
こうも途方に暮れずにすんだはずではないのか。
むろん私は、いまこの日の街道の凄惨な光景が誇張されて伝えられている
と言っているわけではない。
右に述べたことは、むしろ報道者としての私自身が、今後も常に反芻しつづけて
いかなければならない、自戒のつぶやきと受け取っていただければいい。



いかにも産経新聞の記者らしい記述ですが、趣意はその通りだと思いました。

日本の治安は昔に比べれば随分良くなっているし、経済格差も縮小しているのですが、
反対に「凶悪犯罪が増えた」「格差が広がった」と信じている人が少なからず居る理由のひとつも
ここにあるのかもしれません。

一面的な事実の列挙に惑わされて真実を見失わないようにしたいものです。
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