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カンボジアの日本橋 (2) 難民から自衛隊員へ

プノンペンの「日本橋」建設事業に携わった縁でカンボジア人女性と結婚し、
共産党政権下で消息不明になった日本人技術者、渡辺史郎さん。
そのパスポートを持つカンボジア難民が、消息不明から10年後に現れたのですから、
関係者の驚き様は想像に難くありません。


急遽、バンコク駐在の日本大使館職員が事情を聞きに行きました。
職員も最初こそ半信半疑でしたが、写真や身上話から間違いなく、
その男性が渡辺史郎さんの長男・渡辺史遍さんであると確認したのです。


渡辺史郎さんの妻・成楚香さんの話によると、
プノンペンがクメール・ルージュの手に落ちてすぐ一家は地方に追いやられ、
朝から晩まで農作業や灌漑工事に繰り出されていました。
1977年のある日、渡辺史郎さんは突然クメール・ルージュの兵士に連行され、
行方が分からなくなります。
成楚香さんは夫のパスポート、戸籍の写し、夫婦の記念写真などを密かに保管し、
息子2人を育てあげ、ポル・ポト政権の崩壊を迎えました。


3人はプノンペンに戻れましたが、内戦と政情不安は続きます。
1985年7月、渡辺史遍さんは父の国・日本に住みたいという思いを強くし、
妻チア・ヒアンさんを連れて、カンボジア出国を決めました。
母が必死で守り抜いた父の書類を持って、2か月の危険な旅の末、
タイのカオイダン難民キャンプに到着したのです。


父・史郎さんがロン・ノル政権崩壊間際に息子2人を戸籍に入れていたおかげで、
渡辺史遍さんの日本国籍確認とパスポート発行はスムーズでした。
こうして渡辺さんは、一度も行ったことがない日本に
日本国民として“帰国”することができました。
1985年11月26日のことです。


日本人とはいえ、渡辺さんは日本語をほぼ忘れていたので、カンボジア人の妻とともに
神奈川県大和市の難民定住センターに入所し、他のインドシナ難民に混じって、
日本語や日本の生活習慣を学びました。
そして、1986年5月、横浜にある調査会社に就職しました。


しかし、渡辺さんはもっと勉強したいと思っていました。
ポル・ポト政権下で10代前半を過ごし、教育の機会を奪われたのですから、無理もありません。
そんな時、自衛隊員募集のポスターが目に入ってきたのです。
夜間学校に通いながら働けると知り、応募することにしました。
そして、1990年、晴れて陸上自衛隊員になったのです。


そのころカンボジアは和平への道を模索していました。
1990年から翌年にかけて、カンボジア内戦の4当事者が東京とパリで会談し、内戦終結で合意し、
明石康氏を代表とする国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が発足しました。
UNTACは1993年に民主的な選挙を行うことを発表したのですが、
ポル・ポト派は選挙を拒絶し、妨害を宣言し、実際にテロ行為を始めます。
UNTACは民主的な選挙が滞りなく行われるように、各国に平和維持活動(PKO)の協力を訴えました。


日本政府もUNTACの呼びかけに応じることにしました。
当時の日本はバブルがはじけたとはいえ、アジアで唯一の先進国・経済大国だったので、
その地位に見合う国際貢献を求められていました。
しかし、1991年の湾岸戦争における消極的な対応から国際的非難を浴びました。
カンボジアPKOは、日本政府にとって名誉挽回のまたとないチャンスだったのです。


カンボジアで活動するには、カンボジアの風俗と言葉に詳しい人材が欠かせません。
そこで渡辺史遍さんに白羽の矢が立ったのでした。

戦乱のカンボジアを脱出し難民となり、一九八五年、父親の国・日本に来て自衛隊員となった青年が、
国連平和維持活動(PKO)でカンボジアに派遣される施設大隊の一員に、通訳として選ばれた。
日本人の父はポル・ポト政権下で行方不明となったままだが、カンボジア人の母と弟はプノンペンにいる。
青年は派遣に「精いっぱい役に立ちたい」と気持ちを引き締める一方で、母や弟との再会を楽しみにしている。
陸上自衛隊富士学校から選ばれた渡辺史遍陸士長(二七)で、十月上旬カンボジアに向かう。

渡辺さんによると、父親の史郎さんは兵庫県出身。建設技術者としてプノンペンに駐在中、
中国系カンボジア人の成楚香さんと結婚し、史遍さんと弟の史明さんが生まれた。
ポル・ポト政権下の七五年、一家はプノンペンから郊外の農村に移住させられた。
父は七八年、強制労働の途中どこかへ連れて行かれたまま、行方は分からない。
八五年七月、母や弟と別れ、カンボジア人の妻(二九)と国境を越え、タイに脱出した。
そこで日本大使館から日本人であることを確認してもらい、同年十一月に来日。
日本語を勉強しながら働いた。
九十年、自衛隊の求人ポスターを見つけ、夜間学校で勉強できるのが魅力で入隊した。

今年春、「クメール語が生かせるなら」と、派遣隊員に志願。
八月下旬から、簡単なクメール語の講師も務めている。
「こんな形でカンボジアに戻れるとは、夢にも思わなかった」と渡辺さん。
静岡県内に妻、五歳と四歳になる娘を残しての単身赴任だ。



同じ月の朝日新聞に
「カンボジアに向かう自衛隊員には、カンボジア在住経験のある
 陸上自衛隊富士学校所属隊員が作成したクメール語会話集が配られた」
という記事もありました。
おそらく渡辺陸士長のことでしょうね。


渡辺さんは、1993年1月、テレビのドキュメンタリ番組でも取り上げられました。
彼の活躍は、多くのインドシナ難民を勇気づけ、難民に対する世間の偏見を解く
きっかけにもなりました。


カンボジアPKOから20年近くの歳月が流れ、渡辺史遍さんは今年で47歳になります。
別離時の父・史郎さんの年齢を超えました。
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つくばに隕石が落ちた直後に生まれたらしい。

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